安保法案:現代思想10月号

管理人のフェイスブックの2015年9月13日の投稿から転載。

http://www.seidosha.co.jp/index.php?9784791713059

『現代思想』10月臨時増刊号「安保法案を問う」より、印象に残ったのをいくつか。

徐京植「他者認識の欠落――安保法制をめぐる動きに触れて」
日本国憲法の精神の根底に侵略戦争に対する自己批判が据えられているが、この他者への配慮は、戦後70年談話における帝国主義戦争である日露戦争の正当化と、植民地・侵略被害者や被爆者などへの責任をとってこなかったことにみられる、自己中心的な安楽への全体主義(藤田省三)のなかで、ないがしろにされている。今回の安保法制への反対も、生活を守るという、まっとうではあるが、私的な動機から他者への想像力へとつなげなければ、平和と連帯の契機とはなりえないだろう。

石川健治「深い明るさの方へ」
ケルゼンによると、憲法改正権は、憲法の個別の条文に変更を加える権限であるため、実定憲法の上位規範にあたる。憲法改正権は憲法制定権者に授権された権限であり、さらに、憲法制定権を授権する「根本規範」が法論理的に要請されることになる。ここで根本規範のさらなる授権者が問題となるが、ケルゼンは命令に従うべしという漠たる仮設規範、シュミットは決断主義的な決定(実定憲法に基づくという法実証主義的)、清宮四朗は歴史的事実とする。解釈改憲と憲法96条改正論議が立憲主義に反する理由は、まさにこうした上位規範に反するが故なのである。

上尾真道「戦争から遠くはなれて――イロニーの安全保障関連法案」
戦争を抑止するという理由で戦争に参加できるようにする安保法制はアイロニカルである。戦争遂行で最初に想定されるのは空爆への参加であり、空爆とは、戦争参加国の住人全員が戦争加害者になる総力戦体制において、戦争の早期終結のために被空爆国の住民を一方的に被害者とするものだ。そこでは、有志連合による意志の貫徹が行われ、他者の抗戦の意志はくじかれる。戦争を根絶するにはさらなる暴力が必要とされるアイロニーは、戦争への忌避と虐殺を同時に可能にする空爆によってもたらされている。

大竹弘二「リアリズムを越える民主主義のために」
「安全」とは国家の安全のみを指すのではなく、立憲主義では、個人の人権として国家から守られなければならないものである。国家の「安全」、すなわち国益の概念はリアリズムの祖モーゲンソーに由来するが、彼は民主主義的価値観を称揚したうえで、ヴェトナム戦争のような民主主義の輸出には反対し、他国への模範となるような自由と平等を達成することが国益にかなうとしたのであった。ゆえに、日本にとっての安全とは、自国の負の歴史を直視し、その人道に対する罪を反省することなどで、普遍主義的なアイデンティティを手に入れることである。

市野川容孝「安全性という危険」
フーコーとアレントが示したように、安全性の要請は、法をやすやすと超える訴求力をもつので、法の支配を危うくする。しかし、安全性の要請のもとであることを危険とすることで、他の安全性が損なわれることになる。たとえば、社会的安全性(社会保障や表現の自由)や法的安全性(安定性)などだ。「ある安全性は、それとは別の安全性にとって危険である」のであり、総体的な安全性は個々の安全性と複雑に結合しあっている。シュミットが提唱したように、非常大権のもとに安全性をすべて投げ打って新たな秩序を作り替えるというのがナチスのとった方法であるが、そうではなく求められているのは、総体的な安全性の中での個々の安全性をせめぎ合わせ活性化させることだ。

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